生死の向こう側。

母と電話をする機会があった。

多少の悲しい話、多少の嬉しい話、ある程度の何気ない話をした。

母は私が音楽活動を行っている事を知っている。いや、知っているというのは多少の語弊を含んでいる。

音楽をやってる事は自分から伝えたため、「教えた結果、知っている」が正しいのであろう。

家族というものは自分個人と1番関わりの深いものである。

いわば思想、秘密、エピソードを1番共有している存在である。

友人や周りの人には言えない事や、知られていない事を知っているのが家族だ。

私が昔、家の中で全裸で踊っていて足の神経を痛めて病院に運ばれたり、夢遊病が酷く、寝ながら布団に水泳の飛び込みをしていたり、某国民的遊園地に行く時はゴム製の蛇を身体中に巻きつけていたり、白熊のぬいぐるみに依存していたり。

家族は全て知っているのだ。

ただやはり、家族にも言えないことはある。(少なくとも私は、だが。)

気になってた女性にお酒奢ってもらったときに調子に乗って2万円分近く飲んでしまってそれっきり疎遠になったり、昔の恋人にプーさんの物真似をしすぎて怒られたり。

そんなことはとても家族には言えないのである。

私は真っ正面な意味での本音であったり、心の中を曝け出す事がすごく苦手である。恥ずかしいのだ。

恋人ができたなどといった色付いた話、通念上良くない話であるとかは家族には言えない。

逆に周りに気を使わないブラックジョークや、センシティブな部分は家族にしか話さない。

すなわち、生きている上で本音や心の内は分けて話しているのだ。家族に話せる心の内を、友人や仲間に話せる心の内を、どうでもいい人に話せる心の内を。

ハリーポッターシリーズでいうところの分霊箱の原理である。(至極賢明な読者ならわかるであろう。完全に全てを話すに至る人は現れるのだろうか。)

さて、話を戻そう。

どうやら母もとい叔父は我々のアルバムを買ってくれたらしい。

ああ、そうか…うん…

懸念はあるけど考えないようにする。

嬉しさで蓋をしよう。直接聞くのは怖い…何をとは言わないが。

「通勤の時に聴いてるよ」「家に飾ってるよ」「すごいねえ」

ああ、少しだけ報われた。そんな気がした。

それ以上の言葉はいらない。本当に素直にそう思った。

そう思った半分は、もう報われてるから充分だ、これだけでまたやっていける。

もう半分は、家族には共有できない、してなかった私がそのアルバムに佇んでいるからだ。

「あんたも歌ってたねえ?」

もういい。やめてくれ。

「上手かったよ…まぁ…うん」

それ以上の言葉はいらないんだ。

わかるんだ、私はあなたの息子だし、家族だ。

ここから先、言うであろう言葉がわかるんだ。

「その…あの曲ねぇ…」

「あーー、結構コーラスとかもやってるんだよねぇ!今回音源、うんうん!意外と歌ってるんですよー、いやーありがたいですー聴いてくれてー」

家族というのは不思議だ。1番聞きたかった言葉と聞きたくなかった言葉をごく自然に差し出す。

「あんたメインでも歌ってた曲一個あるよねえ…」

「あー…うん…歌ってるねえ、私…メインで…一曲…うん…」

「良かったよー…まぁ…ははは…」

「はは…そうなんだ…よね…あの曲ね…うん」

「うちの会社でも広めようかなと思ったけど…少し過激だし…ねぇ…」

「アレハ、ソノ…ハハハ…」

心臓が少しだけキュッてなった。

いつかの名残、ティシュペーパー、ついてる。

誰の事かも覚えてないのに。

曲書いたやつ、本当覚えてろよ。

さて、今回の話は名作落語、「死神」にも通ずる部分があるのではないだろうか。

吹いたら(拭いたら)生(精)が無くなる部分が。

ああ、消えちまった。

眩しかったぜ。

さよなら

ボンド

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